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2008年12月 1日 (月)

チベット人作家ウーセル(唯色)の生い立ち『私のアルバム〜我が家の三代記』

北京で活躍するチベット人作家ウーセル(唯色)がブログ『看不見的西蔵』で「私のアルバム」と題して、自らの生い立ちを綴っている。

Woeser_on_voaなぜ彼女が北京で無事でいられるのか、その生い立ちが大いに関係あるのだろう。今までよく知らなかったので、とりあえず訳してみた。

ほぼ毎日ブログを更新しているウーセルだが、11/30付けのエントリーで「今日から新刊の執筆の集中するので、更新はゆっくりになる」と記している。
ただし、同時に、毎日更新の『民間藏事』というウーセル夫妻編集のサイトがオープンした。チベット本土・中国内のチベット人が書いている中国語ブログを中心にRSSを拾ってくる形のようだ。

『看不見的西蔵』(Invisible Tibet)http://woeser.middle-way.net/
『民間藏事』http://tibet.woeser.com/

以下、『我的相冊〜我家三代』(文/ウーセル、2008年11月26日付)より(勝手に)全訳。[]内は私の訳注。なんとなく雰囲気で訳してるところもあるので、心配な方は原文でご確認ください。


1970_3

ここで紹介する写真は1947年から1991年にかけてのもの。登場するのは、私の父方の祖父、母とその弟・妹。母方の祖父母もいる。そして、私と妹・弟。ここに我が家の3代にわたるチベット人たちの歴史がある。

上の写真は1970年に撮られた、4歳の私。背景はポタラ宮だ。よく見ると、その頂にぼんやりと5つの文字が見える。大書された『毛主席万歳』。当時、ポタラ宮は『東方紅宮』と改名されそうだった。

『私のアルバム〜我が家の三代記』

1947_2

▲1947年。母方の祖父はカシャク[訳注・チベット政府内閣]のカロン[閣僚]を務めており、チャムド総督ラルの次官として命を受け、東部のダルツェド(康定)で商いをしながら情報収集にあたっていた。妻と女の子2人が一緒だった。その女の子のひとりが私の母である。写真で祖父母の間に立っているのが母。ダルツェドの写真館で撮影したそうだ。母の実家はウ・ツァンのシガツェである。

1954

▲1953年、父方の祖母は、夫とともに初めて漢族地域に赴いた。これは成都の写真館で撮影したもの。祖母が、父の幼い妹を抱いている。祖母はカムのデルゲ出身だ。

1955

▲1955年、私の父、若きカムパである。1950年、毛沢東は「帝国主義の圧迫の下にあるチベット同胞を解放」すべしと軍隊を派遣した。中国西南部からラサへ進軍した先遣部隊はその途中で数百人の若いチベット人を召集した。その中にまだ13歳だった父がいた。この写真では、すでに18歳になっている。彼は党が育成すべき新たな力であり、従軍する前にチベット語・漢語両方ができたため、西南民族学院に送られた。

1956

▲1956年、父はチベット軍区が選抜した唯一のチベット人士官として、北京に赴いて建国記念式典に参加し、毛朱周劉[毛沢東・朱徳・周恩来・劉少奇]と会った。その後、故郷カムのデルゲに戻り、父親や弟・妹とともに写真を撮った。当時、祖母が亡くなってすでに2年たっていた。私の祖父は漢人であり、国民党某部隊の中佐副官を務めた後、カムのデルゲで余生を過ごし、チベット仏教を信仰していた。

1960

▲1959年、母はラサのチベット人幹部学校に学んでいた。中国共産党がチベット人幹部を育成するために設けた学校である。この写真は父が撮ったもの。当時母は出身家庭の問題から、すでに思想上の重荷を抱えていた。

1964

▲1963年頃、母は北京の中央政法幹部学校に学んでいた。彼女の学友たちは皆、後にチベット自治区の公的機関の高級幹部となった。ラディ[元チベット自治区共産党副書記]もそのひとりだ。この写真は、父と、四川の雅安で学んでいた妹が母に会うために北京を訪ねたときのもの。有名な写真館のスタジオでずいぶん時間をかけて撮ったそうである。

1965_1

▲1965年9月、ふたりは結婚した。私の父と母になったのだ。この写真の背景はラサのツクラカン(大昭寺)のようだが、ムル・ゴンパ(上密院)のようにも思える。

1966_1

▲1966年7月、北京に始まりラサまでを巻き込んだ文化大革命の暴風雨の中で、私は幸せそうに生まれた。この写真は父が撮ってくれたもの。私は毛沢東の肖像バッジをつけている。これ以降、我が家の写真はすべて父が撮影したもので、自分で現像したものもある。すべて私が保管している。

1967

▲1968年、チベット軍区の中の我が家の戸口にて。ドアの上の「忠」の字は、父がはさみで刻んだもの。毛沢東に対する忠誠を表わすためだ。母が抱いているのは妹。大きくなった私はまるで男の子みたいだ。中央の女性はアジャ・イシ・ラ。私たち姉妹の面倒を見てくれた、大好きな乳母だ。

1970_1

▲1970年、筆舌に尽くしがたい文化大革命によって、一家はラサを離れ、東部カムに移った。出発間際、空港に向かう車の前で撮った写真だ。母のお腹の中には私の弟がいる。面白かったのは、親友デチェン・ラにこの写真を見せたら、「あなたの横にいる男の子は誰?」と言われたこと。私は笑いをこらえて答えた。「それが私よ!」。デチェン・ラは驚きのあまりコンピュータの前でひっくり返りそうだった。

1972

▲1971年、カムのタウ(現在のカンゼチベット族自治州タウ県)にて。弟がすでに生まれており、どういうわけか、私も妹も髪を短く切っている。当時、父は人民武装部副部長をしていた。母は出身家庭の問題から公安関連の仕事に就くことはできなかった。彼女は新華書店で本を売っており、これが私にとっては幸運だった。そこに行けば革命書籍や革命劇画をいくらでも目にすることができたからだ。ともかくそんなわけで私は本を読むのが好きになり、近視になってしまったのだ。

1973_1

▲1973年、母はあまりにラサを懐かしがり、どうしても帰りたがった。しかし、私たちは一緒にいくことはできない。理由は航空券ではなく、頑固な父が帰りたがらなかったからだ。父はもともと文革時代の軍隊内でのいざこざが原因でラサを離れざるをえなかったのだ。それでも私たちは揃って成都までは行った。私と妹はまた髪を切られてしまった。母が何カ月もいなくなってしまい、父は私たちの髪を編めないからだ。成都はとても暑く、あまり楽しくはなかった。この写真は成都の写真館で撮った1枚だ。

1974

▲おそらく1974年、私は小学2年生になった。当時学校で「毛沢東思想宣伝隊」の女優だった。だから母は私にこのチベット服を作ってくれた。これもやはりタウで撮った写真だ。

1975

▲おそらく1975年だろう。タウの冬はとても寒く、大雪が降った。雪が止むと、私たちは外へ飛び出して雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりした。私はちょうど雪のボールを手にしている。妹はとても可愛らしく、賢い女の子だ。背後のあの山を、私は忘れられない。幼い時代の思い出だ。

1991

▲1991年、ラサの軍分区で撮影したもの。我が家の門戸では、夏の花々が満開だ。20年の時を経て、一家はようやくラサに帰った。しかし、これが家族全員での最後の1枚だ。3カ月後、父は突然病いに倒れた。当時、父はラサ軍分区副司令官だった。3年後、母は私を連れて軍区を離れ、ポタラ宮の裏のショル村に引っ越した。

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