「チベットへ行かねば!」と初めて言った日本人、能海寛
チベットに初めて行った日本人といえば河口慧海の名が真っ先に挙がるだろう。しかし、実は“だれが一番か”問題は少々複雑だ。
[“日本とチベット”温故知新シリーズ(?)第3弾。第1弾は矢島保治郎、第2弾は寺本婉雅]
河口慧海は1900年(明治33年)、ネパールから国境を越えて“チベット”へ入った。これが日本人初の“チベット入り”と普通は思う。
しかし、その前年、前回紹介した寺本婉雅とともに能海寛(のうみ・ゆたか)という僧侶が東チベットのダルツェドを通ってリタン、バタンにまで達している。
現在の四川省・甘孜チベット族自治州に属するこの辺りは、当時“チベット”だったはずだ。
少なくともバタンには中国の実質的な支配は及んでいない。
(中国は「及んでいた」と言い張るだろうが)
また、河口慧海がチベット入りを決意したのは1893年(明治26年)4月だと著書『チベット旅行記』にある。チベットにしか伝わっていない仏教経典の原典を手に入れるためだった。
一方、能海寛はすでに1888年(明治21年)、親友のインド行の送別会でチベット行きの必要を説いている。そして、1892年には「自身入蔵ノ任ニ当ラント決ス」とチベット行きを決意している。この時、24歳。
つまり、総合的に見て、能海寛のほうが“一番だった”というのが能海派(笑)の見解だ。
確かに、何かと河口慧海ばかりが脚光を浴びるんで、「ちょっと待て」と言いたい人が多いのはよくわかる。
チベット入りを目指した日本人10人を追った『西蔵漂泊』著者の江本嘉伸氏もたぶんその一人だ。文章の節々に“能海派”色がにじみ出ている。
で、能海寛は、おそらく雲南のどこかで消息を絶ってしまった。同時代にチベットを目指した日本人のうち、ただひとり志半ばにして帰らぬ人となった。
能海寛は故郷(島根県金城町大字波佐)で今も大切にされている。金城町歴史民俗資料館には能海寛の遺品や資料が展示されているし、1989年には『チベット探検の先駆者・求道の師 能海寛』(波佐文化協会発行)が刊行された。
[参考記事]中國新聞 みち紀行「探検家の心は眠らない」
そして、2002年に発行されたのが、これ、『まんが 西蔵探検家 能海寛』(波佐文化協会・発行、南一平・画、江本嘉伸・原作&シナリオ)だ(写真左)。
能海寛の生涯を描いた漫画だけでなく、文章による解説や年譜、写真資料も豊富。写真右は『能海寛 チベットに消えた旅人』(江本嘉伸・著、求龍堂)。
[参考記事]
web-さんいん能海寛の生涯漫画に
山陰中央新報「偉人伝は漫画が似合う?」
[たぶんここで買えるんじゃないかな?→]吉田屋書店 おすすめ地域図書
しつこいようだが、チベットを目指した日本人については、以下2冊が定番だ。
『西蔵漂泊』上下巻(江本嘉伸・著、山と渓谷社)
『チベットと日本の百年』(新宿書房)
また、別冊太陽『日本の探検家たち』(平凡社)もカラー写真が多くて楽しめる。
最後に声を大にして言いたい。
たぶん1988年だと思うが、どこかの民放で能海寛を取り上げた番組があった。
西田敏行が能海寛の足跡を追って、四川省だか雲南省だかでロケをしていたはずだ。
確かに見た覚えがあるのだが、ビデオは残っていない。
というわけで、どこかにないでしょうか!?
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