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2005年1月20日 (木)

ダライ・ラマ13世と本願寺の縁結びをした僧侶、ていうか工作員・寺本婉雅

“日本とチベット”温故知新シリーズ(?)第二弾。(第一弾は矢島保治郎

teramoto_enga年末に楽天フリマで『藏蒙旅日記』(寺本婉雅著、横地祥原編、芙蓉書房)を発見して衝動買い。4,000円もしたが、昭和49年初版の時点で定価3,000円だったことを考えるとお買い得だと信じたい。折込地図も付いてるし。

で、この本に限ったことじゃないけど、古本屋さんが書名や著者名を間違えて(婉画とか蒙藏とか)入力してるせいで、検索に引っかからないことが結構あるのが残念。

寺本婉雅は東本願寺の僧侶で、能海寛とともに成都からバタン(巴塘)経由でラサに向かおうとしたもののガードがきつくて断念。能海寛は雲南側からチベット入りを企てる執念深さをみせたが(後に消息を絶つ)、寺本は抜け目なく(?)一旦帰国。北清事変に乗じて北京から大蔵経を持ち帰ったり、雍和宮の座主アキャ・フトクト(阿嘉呼図克図)を日本に招くなどの活躍をした。そのコネで青海側から1905年にラサ入り。

ラサ周辺はあっけなく通過して(当時ダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命中)、活躍したのは青海のタール寺に入ってから。ダライ・ラマ13世とも謁見し、後に西本願寺の大谷尊由と13世との会見に結びつけた。ブリヤートからのアヤシイ留学僧ドルジェフにも会っている。やっていることはほとんど工作員。もともとその種の才能があったのだろう。

小さな活字でぎっしり二段に組まれた『藏蒙旅日記』は通読が困難だった。記述が非常に細かいのは嬉しいことだが、旧仮名づかいの上、読めない漢字が多すぎて、全文つきあうのは途中で断念。第三部にいたっては漢字とカタカナだけになってしまい、読ミニクイッタラ有リヤシナイ。『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』でアタリをつけておいて、盛り上がってそうなところだけ一生懸命読ませていただいた。

 米国公使ロックヒール氏は六月十四日北京発五台山に登り、達頼と二回謁見、何事歟上申せし由。
 曩に独乙の武官来謁あり。又英国宣教師も来謁ありしと云ふ。英米独露は各々争ひて達頼に通ぜしと話しぬ。達頼の威光や大なりと云ふべし。之を見て我邦の宗教家の言ひ甲斐なき、世人に尊敬せられざるのみならず、却りて世人に擯斥せられ、仏光の宣揚に甚だ微力なり。達頼や支那皇帝の大導師とし北京政府の全力を濺ぎて達頼を歓迎せんとし、各国争ひて之に接近せんとす。之を歓迎するに多大の意と巨費を投ずるものも、之に接近せんと争ふ各国の意図も、共に政治的範囲を出でずと雖も、一個の法王に対する万人の視線の甚だ慧敏にして、各国環視の圏内に在りて亭々として独立し、決して世俗に媚びず、却りて世俗をして遠近の嫌ひなく来りて叩頭せしむるの態度は、実に宗教家として正に学ぶべき偉大の感化あるに非ずや。吾人は達頼の勢力の大なるを実見するに付て日本の宗教家の微力なるを恥ぢざるを得ざるなり。
(p.280)※註:達頼=ダライ・ラマ

仏教云々以前に、チベットを守らねば! 英国やロシアでなく、同じアジアの日本が! というモチベーションに突き動かされていた気配は、この時代ならではだろう。
そういえば、ダライ・ラマ13世は寺本に、日本の天皇に宛てたカタ(贈り物の絹)を手渡したりもしている。政治的にますます難しい状況になって、頼れそうなところにはできるだけ手を打っておこうという期待があったのだろうか。結局、日本は期待に応えられなかったようだが。

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