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2005年1月

2005年1月30日 (日)

ダライ・ラマ法王の事務所が閉鎖! 中国の圧力?…カトマンズの話だけど

ネパールの首都カトマンズにあるダライ・ラマ代表部事務所とチベット難民福祉事務所(TRWO) がネパール政府によって閉鎖された。
40年以上も活動を容認してきたネパール政府が今になって急に「正式な許可がないから閉鎖」なんて言い出したのは、ネパールをじわじわと取り込んできた中国の圧力のせい、と勘ぐられて当然だ。

国内での報道はAFP-時事の「ダライ・ラマ代表事務所2カ所を閉鎖=ネパール」(1/28)。
2/1のサンケイ新聞に記事が出た(←この部分2/1追記)
中国圧力? ダライ・ラマ亡命政府事務所に閉鎖通告
http://www.sankei.co.jp/news/050201/kok047.htm
欧米での記事は例によって、まことさんのブログ「北朝鮮・チベット・中国人権ウォッチ−東北アジアの全ての民衆に<人権>の光を!」にいくつか翻訳が掲載されている。
ダライ・ラマ代表部事務所「中国がオフィスを閉鎖するようネパールに圧力を掛けた」と主張/アメリカ「深刻な懸念」を表明(ラジオ・フリー・アジア 05.01.29)
http://watch.blogtribe.org/entry-ff477826599cb8279ecd1db7d3c9e7c0.html
ネパール政府、カトマンズのダライ・ラマ関連施設を閉鎖(AFP 05.01.28)
http://watch.blogtribe.org/entry-ed02c0bb028b2d3e484c217848660330.html

チベットを逃れる難民たちのほとんどは、ヒマラヤを越えてネパールを目指す。
山中でネパール兵にワイロを払って見逃してもらったりしてカトマンズにたどり着き(たどり着けない者も多いだろうが)、受け入れセンターに収容され、国連の難民高等弁務官事務所(UNHCR)によって難民であるという法的身分が与えられてはじめて一息つくことができる。
このUNHCRの業務を実際に行なっていたのがチベット難民福祉事務所だ。
事務所がなくなったら、今なお年間1000人〜2000人もいる難民保護の活動に支障が出ることは明らか。

かつてネパール政府はチベット難民の受け入れに柔軟だった。公式には「チベットは中国の領土」と言ってはいるが、そこはそれオトナの対応で、実際にはダライ・ラマ法王のチベット亡命政府の動きも事実上容認していた。
もともとチベット人やチベット系諸民族が多く住んでおり、文化も近い。今も2万人のチベット難民が定住している。
[チベット難民についてはチベットハウスのコンテンツ「亡命チベット人」をどうぞ]

個人的にも、チベットからカトマンズに下りてくると、あちこちにダライ・ラマの写真が大っぴらに飾られていて、「やっと普通の世界に来たか」とホッとしたものである。

ネパール警察しかし、近年、チベット難民がネパールで不法入国者として捕まって中国に送還される(そして間違いなく投獄される)例が増えた。定住した難民たちの活動が制限されるようになり、ダライ・ラマ法王の誕生日も大っぴらに祝えなくなった。
[写真は、国際人権デーの集会を警備するネパール警察。International Campaign for Tibetのプレスリリース(2002/12/10)より]

ネパール警察山間部の毛沢東主義武装勢力(Maoist=マオイスト)や王室乱射事件などで政治も経済もどん底状態に陥ってしまったネパールは、隣国である中国に頼らざるをえない。
「またマオイストをひと暴れさせるぞ」とまで言ったかどうかは知らないが、「ダライ・ラマに与しなければ助けてあげる」という中国の圧力にますます逆らえなくなってきたということか。
[写真は、チベット難民を中国に送還するバスを阻止しようとしてネパールの警官に引きずられるチベット人女性。International Campaign for Tibetのプレスリリース(2003/5/31)より]

米国も英国もすでに遺憾の意を表明している。ネパールへの最大の援助国は日本だし、ロイヤルファミリー同士の交流もあるらしいし、何か一言ぐらい言えないもんなのかね?
ちなみに、日本のダライ・ラマ法王日本代表部事務所は1976年に創設され、東アジアを管轄。新宿にあります。

2005年1月27日 (木)

「チベットに恋した中国人」は純愛?寵愛?掠奪愛?

先週発売の「ニューズウィーク日本版」に「チベットに恋した中国人」という記事が載っていた(1/26号p.64)。ちょっとだけ内容を紹介しておこうと思う。
英語版(International Edition)の記事(1/17号)は↓で全文読める。
A Tibetan Love Affair
http://msnbc.msn.com/id/6803307/site/newsweek/

まずは写真。キャプションが「ブーム到来 中国に翻弄されてきたチベット自治区に中国人観光客が増え続けている」
…内容自体は間違ってないが、チベット自治区と書いてあるわりには、載ってる写真はどう見ても青海省のクンブム寺(タール寺)前にある八仏塔だ。(だよね?)
元の英語版のキャプションは“New faithful: Chinese tourists visit a Buddhist temple in Tibet”。“自治区”なんて書いてない。
そのまま“チベット”とだけ訳しておけば「さすがニューズウィーク。青海だってホントはチベットでしょ?という思いを込めた確信犯的なキャプションだ」と株が上がったものを、“自治区”なんてゆー、みっともない中国擦り寄り用語を付け加えたために中途半端に写真とズレてしまったわけだ。
日本版のセンスに、いきなり萎え(´・ω・`)

気を取り直して、本文はまず、北京育ちの中国人男性(漢族)が四川省セルタ(色達)の僧院[ラルン・ガル寺(五明佛学院)のこと]に入って、すっかり仏教にハマってしまう過程を描く。名前もチベット風に変えてしまったという。
いるいる♪ 僕の知り合いの漢族にも、まさにセルタ通い状態の人がいる。

hanhong次に紹介されるのがチベット人歌手の韓紅[←写真。ハン・ホンと読みます]。チベットローカルではなく全国区で人気の女性シンガーだ。チベット名はヤンチェン・ドルマ。
ちなみに、韓紅は昨年8月25日にラサのポタラ宮前広場でライブを開催する予定だったが、広場の改修工事とかいう理由で実現しなかった。元爆風スランプのファンキー末吉もツアーメンバーとして参加するはずだったのに。

さらに、チベットに入れ込みまくっていることで有名な満州人作家・温普林が書いた本『巴伽活佛』は100万部以上売れたという。また、江沢民が甘粛省の寺院復興のため3600万ドルの拠出を認可したという、あやしげな(笑)エピソードも紹介されている。隠れシンパかもしれないな(なわけないと思うけど)。

中国人がチベットにハマるようになった理由は、
・改革開放政策のおかげで
・自分の意志でチベットへ行けるようになり
・海外からの情報も入りやすくなったうえに
・「毛沢東思想の挫折」で空いた心の穴にうまくハマり
・もともと仏教の伝統があったのも吉
と、まとめられている。

最後に「ダライ・ラマも注目する」と小見出しを立て、
前述のセルタの僧院に中国当局が警戒していることを示しつつも、
こうした社会の変化によって「いずれチベットの自治回復の道も開けるかもしれない」と楽観的に結ぶ。

....だといいけどね(´・ω・`)
中国人の好みに合わせてるうちに、どんどんチベットらしさが薄まって、結局呑み込まれちゃうんじゃないか……ハッキリ敵だとわかった解放軍や紅衛兵の暴力よりも、愛情たっぷりの求愛のほうが始末が悪いんじゃないか……なんて思っちゃうんだけど、考えすぎか?

2005年1月24日 (月)

チベット式祈りの旗“タルチョ”は進化するアートだ

チベットの風景を彩る必須アイテムのひとつがタルチョ。
“ルンタ”(風の馬)と呼ばれる馬の絵や、神仏に捧げるお祈りの呪文、仏教の経文などが刷られた旗のことだ。

[以下、写真をクリックすると、ちょっとだけ大きくなります]

ラサのチャクポリのタルチョ家々の屋根の上や巡礼路、峠、橋など、チベット人の姿のある所にならどこにでも現れる。
タルチョを目にすると「あぁ、ここはチベットなんだ」と感じることができる。
[写真はラサのチャクポリ(薬王山)の巡礼路]

カイラスのドルマラのタルチョラサなど中央チベットでは“地・水・火・風・空”を表わす五色の布を、万国旗のように、あるいは洗濯物のように(?)たくさん連ねるのが一般的。
タルチョ架け定番スポットの峠ともなると、おびただしい量のタルチョが何百年もかけて積み重なって、ちょっとすごいことになっている。
[写真は聖山カン・リンポチェ(カイラス山)の巡礼路にある峠ドルマ・ラ]

ラガンの巡礼路カム(東チベット)地方やコンポ地方、ブータン、シッキムなどでは、白一色の大きな布を、木の柱を使って幟(のぼり)状に仕立てたものが多い。“タルシン”とも呼ばれる。
[写真はカムのラガン(四川省康定県の塔公)草原。どこまでも続く幟(のぼり)状のタルチョが巡礼路の道しるべ]

ラガンの裏山カム地方では、白い幟(赤いのも多い)が山の斜面にぎっしり林立しているのが目を引く。遠くから見ると、幟の群れが三角形をなすように配置されていることがわかる。
それぞれの固まりが仏や菩薩・神々の姿。山の斜面に仏画を描いているようなものかも。
いつも見える場所から見守っていてくれ、というわけか。
カムの人々の信仰心、っていうか、怖いぐらいの執念を感じる。
[写真は同上ラガン寺の裏山。よくぞこれだけ並べたもんだな、しかし]

デルゲのタルチョ群同じくカム地方では、タルチョを立体的に、かなり凝った構成で組み合わせたオブジェ(?)も多く見られる。
たぶんタルチョで立体マンダラを描いているんだと思う。
“タルチョ・アーティスト”たちが日々“仕事”を競い合っているに違いない。
なんというか「これだけ気合い入れてるんだから、わかってくれよ」的な迫力に、頼られた神仏・菩薩の皆さんは思わず優先順位を上げてしまいそうだ。言うこと聞かないと後が怖そうだし。
カムの人々は、タルチョ作りにおいても熱いのだ!
[写真はデルゲ(四川省徳格)のケサル王関係の聖地にあるタルチョ群。デルゲとケサル王については紀行「チベット大蔵経の郷デルゲ」をどうぞ]

2005年1月20日 (木)

ダライ・ラマ13世と本願寺の縁結びをした僧侶、ていうか工作員・寺本婉雅

“日本とチベット”温故知新シリーズ(?)第二弾。(第一弾は矢島保治郎

teramoto_enga年末に楽天フリマで『藏蒙旅日記』(寺本婉雅著、横地祥原編、芙蓉書房)を発見して衝動買い。4,000円もしたが、昭和49年初版の時点で定価3,000円だったことを考えるとお買い得だと信じたい。折込地図も付いてるし。

で、この本に限ったことじゃないけど、古本屋さんが書名や著者名を間違えて(婉画とか蒙藏とか)入力してるせいで、検索に引っかからないことが結構あるのが残念。

寺本婉雅は東本願寺の僧侶で、能海寛とともに成都からバタン(巴塘)経由でラサに向かおうとしたもののガードがきつくて断念。能海寛は雲南側からチベット入りを企てる執念深さをみせたが(後に消息を絶つ)、寺本は抜け目なく(?)一旦帰国。北清事変に乗じて北京から大蔵経を持ち帰ったり、雍和宮の座主アキャ・フトクト(阿嘉呼図克図)を日本に招くなどの活躍をした。そのコネで青海側から1905年にラサ入り。

ラサ周辺はあっけなく通過して(当時ダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命中)、活躍したのは青海のタール寺に入ってから。ダライ・ラマ13世とも謁見し、後に西本願寺の大谷尊由と13世との会見に結びつけた。ブリヤートからのアヤシイ留学僧ドルジェフにも会っている。やっていることはほとんど工作員。もともとその種の才能があったのだろう。

小さな活字でぎっしり二段に組まれた『藏蒙旅日記』は通読が困難だった。記述が非常に細かいのは嬉しいことだが、旧仮名づかいの上、読めない漢字が多すぎて、全文つきあうのは途中で断念。第三部にいたっては漢字とカタカナだけになってしまい、読ミニクイッタラ有リヤシナイ。『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』でアタリをつけておいて、盛り上がってそうなところだけ一生懸命読ませていただいた。

 米国公使ロックヒール氏は六月十四日北京発五台山に登り、達頼と二回謁見、何事歟上申せし由。
 曩に独乙の武官来謁あり。又英国宣教師も来謁ありしと云ふ。英米独露は各々争ひて達頼に通ぜしと話しぬ。達頼の威光や大なりと云ふべし。之を見て我邦の宗教家の言ひ甲斐なき、世人に尊敬せられざるのみならず、却りて世人に擯斥せられ、仏光の宣揚に甚だ微力なり。達頼や支那皇帝の大導師とし北京政府の全力を濺ぎて達頼を歓迎せんとし、各国争ひて之に接近せんとす。之を歓迎するに多大の意と巨費を投ずるものも、之に接近せんと争ふ各国の意図も、共に政治的範囲を出でずと雖も、一個の法王に対する万人の視線の甚だ慧敏にして、各国環視の圏内に在りて亭々として独立し、決して世俗に媚びず、却りて世俗をして遠近の嫌ひなく来りて叩頭せしむるの態度は、実に宗教家として正に学ぶべき偉大の感化あるに非ずや。吾人は達頼の勢力の大なるを実見するに付て日本の宗教家の微力なるを恥ぢざるを得ざるなり。
(p.280)※註:達頼=ダライ・ラマ

仏教云々以前に、チベットを守らねば! 英国やロシアでなく、同じアジアの日本が! というモチベーションに突き動かされていた気配は、この時代ならではだろう。
そういえば、ダライ・ラマ13世は寺本に、日本の天皇に宛てたカタ(贈り物の絹)を手渡したりもしている。政治的にますます難しい状況になって、頼れそうなところにはできるだけ手を打っておこうという期待があったのだろうか。結局、日本は期待に応えられなかったようだが。

2005年1月17日 (月)

チベット系ブログがまた一つ…「ちべ者」降臨!

ブログ「ちべ者」がオープン。
http://55tibet.way-nifty.com/

tibemonoブータンの猫写真でブログデビューを果たした“あさだ”氏とはいったい何者か?
身近な活躍(?)としては、I Love Tibet!ホームページの掲示板にテレビ番組情報やニュースを頻繁に投稿してくれている。
ワケあって(?)めったに正体は明かさないものの、ネット上だけではなく、リアルのチベット歴も長いので、実際に会っている人も多いはずだ。

個人的には、94年だったか、成都の空港で偶然会って、後に同い年であるばかりか、同じ市の隣の学区出身であることがわかったという衝撃の出会い以来のおつきあいである。

今のところ、本やテレビ、西蔵信息中心ネタなどが並んでいるが、いずれ、もっとヤバいネタ(笑)も登場するに違いない!

2005年1月15日 (土)

チベット僧“放火”で逮捕【またですか?】

チベット人の僧侶が「州議事堂に放火した」として逮捕された。
昨年「爆弾事件で死刑判決を受けた僧侶」が注目を集めただけに、
またか? という気持ちにもなる。
反政府活動をして捕まるチベット人は坊さんばかりではないが、
やけに目立つのは確かだ。
なぜチベットの僧侶はしょっちゅう捕まるんだろう?

ロンドンのTibet Information Network (TIN)の記事の抄訳↓
TIN NEWS UPDATES 11 January 2005
Fire in official building in Kardze; monk arrested
http://www.tibetinfo.net/news-updates/2005/1101.htm

2004年12月23日の夜、四川省康定にあるカンゼ(甘孜)チベット族自治州人民代表大会(州議会)の議事堂で火災が発生し、放火容疑でソナム・プンツォクという僧侶が逮捕された。
火災の発生は午前3時頃。ほぼ同じ頃、“free Tibet”を呼びかけるビラがこの地域に貼られていたという情報もある。しかし、ビラと火災の直接の関係を示す証拠は確認できていない。ビラが貼られていたとされる場所の一つは、火災現場から歩いて約1時間半かかる場所である。
逮捕された僧侶ソナム・プンツォクはカンゼ州ダルド県(甘孜州康定県)のツォシという村の出身で、年齢は30代とされている。カンゼ寺(甘孜寺)に所属はするものの、明らかに僧院には住んでいない。彼はずっと“free Tibet”活動家だと当局に疑われていたようだ。2002年にカンゼ寺で行なわれたダライ・ラマの長寿祈願の法要の際、法要を阻止するために警官が寺に乗り込む模様をビデオ撮影していたことがわかっている。
(了)

同じ事件を伝えたラジオ・フリー・アジアの記事の翻訳(byまことさん)↓
「中国四川省−カンゼ県で火災事件が起きチベット人僧侶が逮捕、警備が強化される(米国ラジオ・フリー・アジア 05.01.11) 」
http://watch.blogtribe.org/entry-e9e221353a4bad5a97b92e3e285446d5.html

2001kartse_monkカンゼなどの東チベット(カム地方)の東部(中国的に言うと四川省甘孜州)は歴史的にチベット・中国の境目。表面上、仲良くやっているようでいて、いまだに微妙な緊張関係がひしひしと感じられるエリアだ。
もともとチベットの僧侶は北京よりインド(ダライ・ラマや各お師匠さんたち)に目が向いている人が多いし、長年中国から目のカタキにされてきたから活動家になる素質は十分。空性を理解しているから(?)この世に怖いものはない。
さすがカムの坊さん、元気よすぎ♪
(真犯人かどうかはわからないけど)とりあえず殺生をしなかったのは救いだ。

[写真は花を愛でるカムの坊さん。怒らせたら怖い? 当然本文とは一切関係ありません]

2005年1月11日 (火)

チベットの氷河が30年で9%減少、青海湖がどんどん小さくなっている

1/7の報道↓
氷河面積、30年で9%減少=温暖化、開発など影響−中国・チベット高原
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050107-00000721-jij-int

【北京7日時事】7日の新華社電によると、中国のチベット高原で氷河の縮小が続き、1970年代からの約30年間で全体の9.05%に当たる4420平方キロが消失したことが分かった。地球温暖化と併せ、各種の開発の進展も縮小に拍車を掛けているという。
 同国地質調査部門の調査によると、70年代の氷河面積は48859平方キロに達していたが、これまでに年間平均約147平方キロのスピードで縮小が進行した。また万年雪が積もる標高も上昇し、数百メートル高くなった地点もあるとしている。
(時事通信)- 1月7日21時1分更新

カロラ峠「青海湖が25年で150平方キロ小さくなった」という報道もあった(1/7北京発共同)。水位は年平均8〜10センチ下がっており、西岸は1年あたり60メートル、北岸は130メートル湖岸が後退しているという。
[写真はラサからギャンツェへ行く途中に越える峠カロ・ラ(5,045m)近くの氷河。今のうちに見ておいたほうがいいかも?]

去年11/21にこんな報道もあった↓
チベットで急速に気温上昇 地球温暖化が一因
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041121-00000008-kyodo-int

【北京21日共同】新華社電によると、中国チベット自治区の最近40年間の気温上昇が、中国の他地域と比べて5—10倍のスピードで進み、年間平均気温が10年ごとに0.26度のペースで上がっていることが、21日までに中国の気象研究者の調査で分かった。
 40年間の中でも、特に1990年代に入ってから上昇スピードの加速が目立ち、季節別では秋と冬の上昇が顕著だという。また、標高が高い場所ほど上昇のペースが速く、海抜4000メートル以上の高地は、それ以下の場所より明らかに速く上昇している。
 研究者は、気温上昇の理由について、一部は地球温暖化の影響だが、それ以外の多くの要因も考えられるとして「さらなる分析が必要だ」と指摘している。
 ただ地元の農民にとっては、気温の上昇で一部作物の二期作、三期作も可能になるため、とりわけチベットの厳しい自然環境下では朗報になっているという。
(共同通信) - 11月21日6時15分更新

グゲ遺跡最後のオチが面白かった。って別にオチじゃないか。
気温が上がっているだけでなく、降雨量も増えている。たしかに地元の農民的には嬉しいかもしれない。
例えば西チベットは今でこそ荒涼としているが、グゲ王国が栄えていた頃は、もっと水があって、気候が温暖だったんじゃないかとも言われている。
今後、中国の東のほうの低地が砂漠化と水害で衰えていき、チベット高原が適度な気候になって繁栄する、なんてのもアリかな?
けど、温暖化というのは暖かくなるだけじゃなくて、気候変動が極端になるという危険も伴う。本当は喜んでる場合じゃない。
[写真はグゲ王国の王宮の遺跡。17世紀に滅んだ]

2005年1月 7日 (金)

ヤクの目玉を回してマニ石を積もう! チベット系の新サイト登場!ていうか復活

新たなチベット系サイトが登場した!
というか、ある種の人々なら必ず知っている、札幌の武田さんのサイトが久々に(いつのまにか)装いも新たに復活していたのだ。

parkhang_chungchung「ぱるかん ちゅんちゅん」(http://www.h5.dion.ne.jp/~pema/)
ここで説明するより、とりあえず見ていただいたほうが早いと思うが、
チベットをめぐる真面目なあれこれをflashなどのテクを駆使して遊び心たっぷりに表現したコンテンツは、チベットとプログラミング両方のプロだからこそ実現できたもの。初心者にやさしいだけでなく、いちいちツボをおさえていてマニアも楽しめる。
とりえあずヤクの目玉を回して、マニ石が積んでみよー! どんどん積んでいくとイベント発生あり。
記」はブログになってるのでカキコ可。
チベット以外の「持続可能なHP」などのPC系コンテンツも(たぶん)実用的。

2005年1月 5日 (水)

104人が乗ったチベット人巡礼トラックが横転、54人が死亡@青海省玉樹

交通事故で54人死亡=中国青海省
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050104-00000988-jij-int

truck_accident1【北京3日時事】新華社電によると、中国青海省玉樹チベット族自治州で3日、交通事故が起き、54人が死亡、29人が重傷を負った。
 104人の乗った大型車が横転し、大事故になったという。乗っていたのはチベット自治区ラサ市の寺院などへの参拝客で、四川省に戻る途中だった。

青海省玉樹は、伝統的には東チベットのカム地方のジェクンドと呼ばれる辺り。
それにしても、晴れのラサ巡礼の帰りに事故に遭ってしまうなんて……。

第一報を聞いたとき、本当に1台に104人乗っていたのかが、まず疑問だった。でもチベット人ならやりそうだしなぁ……と思っていたら、やっぱり本当に1台のトラックの荷台にぎっしり104人乗っていたようだ。1台の車の事故で、これだけの犠牲者が出るというのは、ちょっと珍しいのではないか?

しかし、輸送トラックの荷台は、いまだチベットには欠かせない大切な交通手段。乗る可能性、十分あり。ひとごとではない。

詳しい記事を探してみると、新華網トップに写真(1枚)入りで出ていた。
青海境内發生特大交通事故已造成54人死亡
http://news.xinhuanet.com/photo/2005-01/04/content_2415473.htm

写真は↓新華網青海頻道から拝借させていただいた。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.qh.xinhuanet.com/2005-01/04/content_3506817.htm

truck_accident2車種は東風・康明斯(Cummins)。荷物を4〜5トン積んだ上、ラサ巡礼帰りの牧民62人を乗せ、途中でさらに42人を積み込んだという。
ルートを追ってみると、ラサから青蔵公路を北上し、崑崙山口手前の不凍泉で東に向かう省道308号線に入り、曲麻莱(チュマレプ)、治多(ディトゥ)と来て、あと少しで玉樹(ジェクンド)という隆宝(ギェルロン)の西10kmの峠で横転。

乗っていた巡礼たちは四川省のカンゼやアバなどに帰るところだったそうだが(青海新聞網http://www.qhnews.com/1/2005/01/04/32@71212.htm)、ラサから四川に帰るのに、なんでジェクンドなんて通ったんだろうと不思議に思っていたら、ドライバー(カンゼ出身のチベット人)の運転免許は失効していたとのことで、だから幹線道路を避けたのかもしれない。こういう人は時々いる。
(1/6追記:このルートは、ある意味、結構メジャーらしいです)

トラックが崖から落ちる程度の事故は本当によく聞く。経験者も少なくない。よほどの大事故でないかぎりニュースにならないだけだと思う。というわけで、ほんと、くれぐれも気をつけましょう。合掌。

2005年1月 2日 (日)

チベット人女性と初めて結婚した日本人−『世界無銭旅行者 矢島保治郎』

yajima_yasujiro年末にamazon.co.jpのユーズドで『世界無銭旅行者 矢島保治郎』(浅田晃彦著、筑摩書房)が出ていて衝動買い(1,344円)。実はまだ読んだことなかったのだった。

矢島保治郎は明治15年生まれの上州人。日露戦争から凱旋帰国した後、十年がかりの世界一周無銭旅行を企てる。1909年に横浜港を発ち(もちろん船で)上海へ。成都からダルツェド(今の康定)を経て、ラマの率いる隊商にまぎれてバタン(巴塘)から金沙江を越えた。十年ほど前に寺本婉雅と能海寛が断念したルートを運よくクリアしてしまう。著者の浅田氏は「女装して通過したのではないか」と書いている。女装写真が実際に残っているからだ。

金沙江を越えた後は、現在のようなコンポ経由ではなく、チャムドを経由してラサへ向かった。ロロン、アラド、ラリ、コンポ・ギャンダを通る旧道が当時のメインルート(『旅行人ノート チベット第3版』p.165)。1910年(明治43年)11月12日にダルツェドを発ち、翌年3月4日にラサに到着。ポタラ宮を肉眼で見た4人目の日本人となった。

が、当時、ダライ・ラマ13世はポタラにはいなかった。清国に追われてインドに亡命中だったからだ(なんだか最近の話みたいだな)。矢島もいったんインドに出た後、船員のバイトをして準備を整えた後、カルカッタからシッキムを経てチベットへ再潜入する。もう世界一周はどうでもよかったんだろう。ラサは蔵清戦争の真っ直中だったが、辛亥革命で清朝が崩壊。ダライ・ラマ13世は凱旋帰国し、1913年チベット独立を宣言した。

矢島はラサでチベット軍の指揮官のひとりとなって軍の近代化に尽くし、ダライ・ラマ13世の信頼を得た。そして、豪商の娘ノブラーと結婚して一児をもうけ、群馬県前橋に連れ帰っている。チベット人×日本人の初めての国際結婚だったが、ノブラーは来日後わずか4年余りで病死。ひとり息子の意志伸も、太平洋戦争で日本軍人として戦死してしまった。

このまま書いていると際限なく長くなりそうなのでやめておく。矢島保治郎の行程や時代背景については、チベットと日本の関係を追い続けている江本嘉伸氏の『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』下巻に詳しく書かれている。また、2004年8月に毎日新聞で「大陸に消えた夢:冒険家・矢島保治郎の軌跡」が5回にわたって連載された。有料でしか読めなくなってしまったので、Googleにキャッシュが残っているものだけ↓にリンクを張っておく。
1:イシ・ノルブ
2:奇抜なる世界周遊
3:もう1つの「セブン・イヤーズ・イン・チベット」
4:チベットからの花嫁
5:長男の戦死…
昨年、前橋に江本嘉伸氏を迎えて講演会も開かれた。あと、『入藏日誌』(チベット文化研究所)っていう本があるんだけど見たことない。

「世界無銭旅行者」を名乗りながら結局ラサに沈没してしまった矢島保治郎のチベット行は、正式な留学生だったり、宗教上の志があったり、特務を帯びたりしていた他の入蔵者(チベットに入った人の意味)とはかなり趣が異なっている。その志からしてまず突拍子もなくて好感が持てるし(笑)、変装してヒッチでチベット奥地に臨むバックパッカーの原型のようでもある。ただ、やや大言壮語の癖もあったようで、あちらで色々やっている限りは“自己責任”で済んだかもしれないが、帰国してからは世間からマトモに相手にされず、結果として妻子を苦しませることになってしまった。金も地位もない人間がチベットなんかにハマるとロクなことにならないという物語の原型をここに見ることができ、身につまされる思いだ(笑)。

上記『西蔵漂泊』に書かれているように、矢島夫妻には、もうひとりラサに残してきたラティという名の女の子がいた可能性がある。ラティはおそらくノブラーの姉あたりに育てられ、本人もしくはその子息が、今もどこかで矢島保治郎の血を受け継いでいるかもしれない。

矢島一家はダライ・ラマ法王の夏の離宮ノルブリンカの敷地内に住むことを許された。ノルブリンカというのは、だだっ広いため、入口から一番遠い端っこにある13世の離宮チェンセル・ポタンまで行く人は少ない。普通、動物園まで行って呆れて終了だ。矢島は「門の左手の僧官宿舎」に住んだという。門とは、チェンセル・ポタンの門のことだろうか? 何か残ってるとは思えないけど、今度行ってみなきゃ。

2005年1月 1日 (土)

最近チベットに出現した“鳥”は?

2005nenga今年もよろしくお願いいたします。
今年の年賀状。クリックすると大きくなります。
キャラクターは毎度おなじみヤッキン&ニマ
年賀状出すのが遅いので、まだ届いてないかもしれませんが、いずれ届くと思います(^^;

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